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執筆者の写真グリーンモールハウジング事務局

祖父の記憶 遺品のアルバムから「大正10.11年 練習艦隊巡行記念 軍艦出雲・八雲 」~国産飛行機開発 大日本帝国海軍航空隊

更新日:9月15日



毎年 8月15日 終戦記念日が近づくと、亡き祖父の遺品ケースを開き思いにふける。

祖父が亡くなり既に35年ほど。


私が25歳位であろうか。

熊本県荒尾市の実家へ帰省の度に私に「まだ結婚せんのか?」 入院先のベッド上では

「そうだ この娘さんはいい子だぞ。」と言って(担当の看護師さん)と苦笑い。

入院中の病院のベッド上で 最後まで私の事を気にかけてくれた想いが蘇ります。



そんな祖父は普段 戦前、戦中、戦後の話は余り語らない方でしたが、お酒が入ると自分は

日本の航空機創世記の国内テストパイロットで、自分は残ってしまった。親友をはじめ沢山のパイロット仲間たちが国産試作機の飛行テストで飛び立ち、そのまま帰らなかった…。


自分は生き残り その仲間達、残された遺族に申し訳ない。という想いを胸に今迄生きてきた…。と 繰り返し つぶやく姿を子供時代に何度もみてきました。


このまま祖父の遺品が朽ちていくのも忍びなく、今回資料の中から一部を公開させて頂く

事にしました。 資料が多く 全てを公開するのは無理なので、ほんの少しだけ。


また記述も当時幼少期の私の記憶なので、事実と異なる記載も有ると考えます。




戦前の国内をはじめアメリカ、イギリス、ドイツ等の軍艦、空母、飛行機の画像や国内・

海外空港・都市(横浜等)空撮写真や人物画像が残されています。

中には開発中の国産飛行機の画像も有るかもしれません。 3枚羽の複葉機や今のオスプレイの元祖みたいな機体も。ドイツ 製かと思います。機体にマークが有ります。


何故我が家にこのような物が保管されているのか。


祖父が福岡県大牟田市に(三井三池炭鉱が有った為)三井財閥が開校した三井工業高校(今の県立三池工業高等学校?)卒業間際に帝国海軍へ入隊すれば世界1周出来ると聞き、世界を見たかった祖父は卒業後海軍に入隊。


入隊後 念願の世界1周に海軍の軍艦 出雲に乗艦して横須賀港を出航。その際の軍艦出雲・八雲全員の乗艦名簿から世界中を訪問寄港した際の画像等アルバムが残されています。


又 航海時の艦内発行新聞「出雲新聞」等 資料等を大事に保存していました。新聞には日々の艦内で乗組員の生活や寄港先での交流やエピソード、国内及び世界情勢についても緻密に記されております。


残念ながら ガリ版刷り半紙で発行100年以上の歳月の為、経年劣化が進んでおり、判読不明の箇所もあります。



大日本帝国海軍 軍艦「出雲・八雲」の2艦隊で横須賀港を出港 大正10年(1921),11年(1922)1年程で世界1周航海訓練 今から103年前です。 祖父は出雲に乗艦していました。



軍艦 出雲 の司令官達 出雲 主砲の前で。


軍艦 出雲 総員画像




軍艦出雲 艦内発行 出雲新聞 大正10年8月20日発刊 横須賀港を出発時

祖父は発行された出雲新聞 を保管 帰国後 個人で製本し 保存。



寄港先の地中海マルタ島 日本海軍戦友墓地にて 大正11年1月10日 記載有り


横須賀からハワイ、アメリカ本土、ヨーロッパ、中東、インド、香港~横須賀


1年の歳月で各寄港先でレセプションも開催され、各国で歓迎されていた様子が記されています。


祖父は帰国後 これからは軍艦より飛行機の時代と感じたらしく、海軍の航空隊で全国を飛び廻ったそうです。


祖父からは日本人はライト兄弟の初飛行から7年後には、国内であの徳川家末裔の方が初飛行したと聞きました。 子供ながら何かすごいなぁ~。と思ってました。



現在より飛行場は多数存在したそうで九州から羽田・横須賀、霞ケ浦、国内の飛行場から

香港、台湾まで飛行経験を積み、日々飛行技術の修練に明け暮れたそうです。


飛行機、飛行場だけでなく機上から撮影された香港や台湾、沖縄、石垣島、鹿児島、雲仙、横浜等の空撮画像も残っています。

九州から関東まで飛行時には富士山周辺は乱気流で、編隊飛行・高度維持に苦労したと

語っていました。



飛行機で九州から関東へ飛行訓練時に上官である後の山本五十六元帥が居ると聞き、空母赤城?か羽田飛行場?で自分たちの飛行技術をお披露目しようと総員皆で艦橋のそばをかすめたり、宙返りやきりもみ飛行等調子に乗り曲芸飛行を実行。

(山本五十六氏は飛行術にも詳しかったそうで、特にパイロット仲間から慕われていたそうです。)


着陸後、山本五十六氏から呼び出され、貴殿らの飛行術の高さは理解出来た。 だが帝国海軍で貴重な財産であるパイロットと機体を失う事は許されない。と こっぴどく叱られたらしい。 映画トップガンでもこの様な光景が有った様な。 昔から有るんですね。(笑)


日本にとり国産飛行機の開発は急務であった為、祖父は海軍と民間(三菱)でテストパイロットとしてリスクの有る試作機に搭乗し日々飛び立ったそうです。 テスト飛行中に墜落が多発し まさに命懸けです。


天候を確認後 早朝、飛行場から試作機で飛び立ち、予定の飛行コースを経由し無事に帰還する。

しかし予定時刻過ぎて帰着しない仲間や後輩のテストパイロット達が続出し、祖父はそんな消息を絶った仲間の飛行機を捜索する為に暗くなるまで、何日も捜索打ち切り後も捜索飛行を続けたそうです。機体の回収より仲間を家族の元に戻す為だったと…。


宿舎でテストパイロットの夫や父の無事を待つ家族の事を想うと…。


祖父自身は機体不調でも墜落して命をとられることは無かった。自分は運が良かっただけだ。と。


そんな祖父の遺品の中に 昭和50年代に記した福岡県大牟田市出身の親友テストパイロット仲間が行方不明になった当時の気持ちが綴られた手記が見つかりました。遺族に対しても 何かの機会に公表したかったのかもしれません。 一部 山本五十六氏についても触れています。


機会が有れば公開させて頂きます。


テストパイロットを得て飛行教官仲間達と共にいち早く民間飛行機会社創設に動いたそうですが資金調達が上手くいかず断念したそうです。飛行機の整備担当していた仲間の一人が後の日本航空初代社長の高木氏と聞きました。

東京で生活していた両親を訪ねて祖父が上京の際、羽田空港に迎えに行くと良く日本航空の高木社長と一緒にいたそうです。


この動きが後に日本航空、全日空、東亜国内航空等の設立の流れなったのかも知れません。




逓信省発行 飛行機操縦士免許です。 祖父所有の物


機種毎に記してあります。1ページ目だけを掲載 昭和10年8月に取得



















雷撃機 (3葉)と記載有り


霞ヶ浦 海軍航空隊 飛行訓練生 卒業間際 と記載有り


大刀洗飛行場と 記載有り


霞空 佛機 水陸両用機 一人乗り シューレック 記載有り 尾翼にF.B.Aと


記載なし ドイツ軍の機体か? 現代のオスプレイの元祖みたいな機体


霞ヶ浦 航空船 格納庫 日の丸有り 見学者も多数集まっているようです。



祖父の人生を振り返る意味でここに記しました。

仕事柄空き家等に立ち入る機会も多いのですが、各家庭毎様々な過去の画像が残されていますが、空き家の処分と共にこの様な資料も無くなっていくのでしょうね。


寂しい限りです。何か残せる方法が有ればいいのですが・・・。




軍艦出雲、軍艦八雲 大正十年・十一年 練習艦隊巡行記念 資料には乗組員全員の写真を

はじめ乗組員名簿も有ります。


もし祖父、曽祖父が当時帝国海軍時代に軍艦出雲・八雲に乗艦されていた方はご連絡頂ければ乗艦名簿等の確認や資料提供させて頂きます。





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