戦後80年 祖父の遺品より
- グリーンモールハウジング事務局

- 9月18日
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熊本県荒尾市の中心部緑ヶ丘にある大型複合施設「ゆめタウンシティモール」1階の不動産会社「グリーンモールハウシング」の藤崎です。
当ブログは私の日々の業務で感じたことなどを日記代わりに記しております。

※日時場所等記載はなく場所と人物・時期は不明です。大正10年頃から祖父が帝国海軍軍人として所属した昭和初期頃の画像と思われます。
今回は前回公開させて頂きました「戦後80年 祖父の遺品の中より」の新たな画像を公開させて頂きます。
昨年同じように公開させて頂きました祖父の遺品に有りました祖父が乗艦した
大日本帝国海軍「大正10‣11年 練習艦隊巡行記念 軍艦出雲・軍艦八雲」 アルバムを
一部公開させて頂きました。
当ブログを拝見された方からご連絡頂戴し、その方のお祖父様が海軍幹部として乗艦されておられたそうで手元の乗艦名簿中には確かにお名前が記載されておりました。
翌日に該当箇所の名簿等をメール差し上げたところ喜んで頂き、まさか100年以上前、
当時私の祖父と一緒に乗艦された上官のお孫様から連絡頂けるとは夢のようです。
祖父も喜んでいると想います。
その方のお祖父様は帝国海軍幹部として立派なご経歴をお持ちの方でしたが、一番驚いたことはご連絡頂戴したお孫様(おそらく私と同年代と思います。)がお祖父様の経歴を詳細に調査されていたことです。
海軍幹部の方なのでネットでお名前を検索すると、研究功績含め様々な記録が確認出来ましたが驚きでした。(帝国海軍幹部として山本五十六元帥の帝国海軍最高幹部会議にも出席されていた方でした。)
ここまで詳細にお孫様がお祖父様の生きた証を辿ってくれたならば、さぞやお祖父様も喜んでおられることと想います。
又私は知らなかったのですが今回、祖父の帝国海軍時代の所属歴を今でも国の機関で照会出来ることを教えて頂きました。 本当にありがたい事です。
今回ご連絡を頂戴したことで、私も祖父のことをもっと辿ってみようと思いました。
母の記憶によると終戦時に祖父の自宅に有った大部分の資料は廃棄処分されているそうですが、それでも僅かに残された祖父の遺品の中には様々な画像が残されております。
帝国海軍航空隊関係の画像資料が多く、高齢の両親も今までそれらの資料公開については控えておりましたが、今回ご連絡を頂戴いたしましたように私たちのお祖父様達が生きた証を辿りたいと思われる方々が居られましたら上記の軍艦出雲、軍艦八雲の乗艦名簿を始め出雲乗艦員向けに艦内で発行された「出雲新聞」横須賀海軍基地出航から帰還迄3冊に製本されています。
(100年以上昔のガリ版刷り手作り艦内新聞なので、虫食い、色褪せが生じております。)
その他霞ケ浦航空隊、石垣島空港、台湾桃山空港、香港空港、空母鳳翔退艦時航空隊総員画像、大正時代?熊本城上空飛行画像等もございますので心当たりの有る方はご連絡頂けましたら、資料公開・添付させて頂きます。
祖父は大正、昭和初期に海軍航空隊にてパイロットととして空母「鳳翔」に乗艦、その後国産飛行機開発のテストパイロット、航空技師として昭和10年代に除隊後三菱重工業等で テストパイロット、航空技師として国産飛行機開発、及び民間飛行機輸送会社等の設立、
運営に携わったようですが。良く判りません。祖父が残した遺品から想定したものです。
今から50年近く前、私が中学生頃に実家の縁側で祖父がスポーツ新聞を読みながらポツリと話しました。
祖父は国産の最新戦闘機開発は勿論、命がけで頑張った。航空貨物輸送、人の輸送手段としての飛行機の民間利用に着目・推進していたようですがあの戦争が始まり、全て変わってしまった。と。
父から聞いた話では昭和30年代両親と私が暮らした東京を訪れた際、祖父は羽田空港で
当時の日航社長が海軍航空隊時代からの既知の間柄だったらしく、必ず訪ねていたそうです。
平和な時代となり飛行機を民間活用し、安定運航する時代がうれしかったのでしょう。
祖父は自身で自動車を運転することは無かったのですが、機械は好きで航空機と自動車等も特にドイツ製が好きなようで、生前40年以上前に私の車に乗せると私にはこれはダイムラー製か?違うと答えるとドイツ車に乗れ!とよく言っていました。品質が良いから安心と。
今はエンブレムが青空と白い雲プロペラの中古車です。 アメ車が好きですが。(笑)

国内の軍艦だけでなくアメリカ、イギリス、アルゼンチン等の軍艦画像が有りました。

航空機は開発中の国産飛行機やアメリカ、イギリス等の航空機、霞ケ浦基地の飛行船画像等が残されています。

アメリカ陸軍航空隊が世界1周時に日本訪問時の画像
また、後日画像アップいたします。



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